日本一の女流作家、いや世界一の女流作家ともいわれる紫式部。
平安時代の貴族の女性で大長編小説『源氏物語』の作者です。
2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で脚光を浴びています。
紫式部はタナカ株式会社のある福井県に住んでいたこともあります。
蚊帳は平安時代にはあったはず……、では紫式部も越前で蚊帳を使っていたのでしょうか?
蚊帳の歴史
蚊帳は古代に中国から伝えられました。
応神天皇の時代に蚊帳を使っていたと『風土記』や『日本書紀』に書かれています。
応神天皇が実在していて、蚊帳を使った記録が本当なら3世紀から4世紀のことです。
遅くとも8世紀には蚊帳(蚊屋)が使われていたようです。
身分の高い人しか使えなかった絹の高価な蚊帳が、時代とともに麻や木綿の蚊帳になり、江戸時代には庶民にも普及しました。
平安時代の蚊帳
平安時代にも蚊帳がありました。
この時代でも蚊帳はとても高価なもので、同じく身分の高い人しか使えませんでした。
主に天皇や皇后、位の高い僧侶などです。
天皇や皇后といった非常に位の高い人たちは「御帳台」(みちょうだい)と呼ばれるところでやすみました。
御帳台の中に蚊帳を張ったようです。
『春日権現験記』は鎌倉時代の絵巻物です。
藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いています。
この絵では、位の高い僧侶が蚊帳の中で寝ていて、お仕えしている人は同じ室内の蚊帳の外で寝ているのがわかります。
御簾(みす)の中で寝ている分には少しは蚊よけにもなったでしょうが、蚊帳に入れるのはやはり特別な人のようです。
紫式部の身分と「蚊」
さて、『源氏物語』を書いた紫式部は蚊帳を使っていたか考えてみましょう。
紫式部の父・藤原為時
『源氏物語』を書いた紫式部は受領階級の娘です。
受領というのは地方官、今でいう県知事のようなもので、貴族としてはあまり身分が高くありません。
任地であくどいことをして一財産を作って帰る貴族もいたようですが、紫式部の父・藤原為時は学者気質でどちらかというと清廉な性格だったようです。
税を高くしたりワイロを取ったりしなければ財産はさほど増えないので、紫式部が「蚊帳」を手に入れていた可能性は低いでしょう。
女房の身分
紫式部は都に戻り娘(のちの大弐三位)を産んだあと、才覚を買われて一条天皇の皇后・彰子に仕える女房になります。
女房というのは侍女のことです。
身分の高い人たちともつきあいのある貴族の一員ですが、あくまでも人に「仕える」身でお姫様待遇ではありません。
ただし彰子の家庭教師のような立場でもあった紫式部は、ふつうの女房よりは待遇がよかったのではないかと思います。
清少納言も蚊に悩まされた
紫式部より少し前の時代の清少納言は『枕草子』の「にくきもの」の段に次のように書いています。
「ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ。」
(眠たいと思って横になっていると、蚊が細い声でやるせなさそうに羽音をたてて、顔のあたりを飛びまわっているのはしゃくだ。羽風さえも、その身の丈にあう大きさの音であることも、とてもしゃくに障る。)
清少納言は一条天皇の中宮である定子に仕えた女房で、紫式部と同じく受領階級の貴族の娘でした。
中宮・定子のお気に入りであった清少納言が蚊に悩まされていたのなら、紫式部も蚊帳のない部屋で蚊に困っていたのではないでしょうか。
天皇や、紫式部たちが仕えていたお后様なら蚊帳の中で寝ていたかもしれませんね。
蚊帳が一般化したのは江戸時代から
蚊帳は作るのに非常に手間がかかります。
かつて一枚の蚊帳をつくることは、一家の主婦にとって男が一代に家を建てることに匹敵する大仕事とされました。
蚊帳が一般化するのは江戸時代で、紫式部たちの時代から600年ほど後のことです。
今では誰でも簡単に蚊帳を手に入れることができると知ったら、きっと紫式部たちもうらやましがるでしょうね。
蚊帳を使えない人の蚊対策
蚊帳を使えなくても蚊の対策は必要。
蚊の対策としては「蚊遣り火」(かやりび)、「蚊いぶし」がありました。
蚊遣り火について
蚊遣り火はよもぎの葉やカヤの木、杉や松の青葉などを火にくべて、いぶした煙で蚊を追い払う方法です。
木や葉が乾燥していると勢いよく燃えてしまうので、あえて水をかけながら煙を多く出すのがコツでした。
蚊いぶしも同じです。
蚊遣り火や蚊いぶしで煙がたちこめるので、大きな我慢をしながら蚊とたたかう必要がありました。
鎌倉時代の随筆『方丈記』にも蚊遣り火の記載があります。
「六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。」
六月の頃に、みすぼらしい家に夕顔が白く咲いているのが見えて、蚊遣火がくすぶっているのも趣がある。
六月は水無月(みなづき)、現代でいう7月から8月ごろと思ってよいでしょう。
作者の鴨長明は蚊遣り火を「あはれなり=趣がある」と書いていますが、近くにいたら煙かったはずです。
和泉式部の和歌
『方丈記』より前の平安時代、紫式部の同僚で皇后・彰子に仕えた和泉式部。
恋多き天才歌人の彼女は次のような歌を残しています。
蚊遣火の煙けぶたきあふぐ間に夜は暑さも身おぼえざりけり
(蚊を追い払うための蚊遣火の煙がけむたく、扇いでいるうちに、夜の暑さも忘れてしまう)
和泉式部も紫式部と同じ受領階級の出身で、皇后にお仕えする中流~下級貴族。
蚊帳は使えないので、蚊遣火で蚊を追い払っていたようです。
蚊取り線香ができたのは近代
蚊取り線香が一般に普及する大正時代までは「蚊遣り火」は日本各地で行われた風習でした。
棒状の蚊取り線香が販売されるのは明治時代の半ば、皆さんよくご存じの渦巻き型の蚊取り線香ができるのは大正時代です。
現代になってから殺虫スプレーや電気蚊取も普及しました。
今も昔も、人々は蚊に悩まされていたんですね。
結論:紫式部は蚊帳を使えなかった
平安時代には蚊帳が高級品であり、蚊帳を使えるのは主に皇族や高僧などのごくわずかな上流階級に限られていました。
紫式部は貴族であるものの、下級の階層に属し、宮廷で仕える身分でした。
そのため、最高級の贅沢品である蚊帳を使う立場ではなかった可能性が高いです。
同時代の他の貴族も蚊に悩まされていた記録があり、宮廷に仕える者であっても蚊帳を利用していたとは限りません。
紫式部の時代には蚊帳が存在していましたが、彼女の身分や財産状況からして蚊帳を使えなかったと見るべきでしょう。
この時代は疫病がはやっていたということもありますので、蚊帳を使えた貴族とそうでない貴族で生存率が変わったかもしれませんね。